文字文化一木一草

「一木一草」とは、「一本の木、一本の草」。又、きはめてわづかなものの例へである。親鸞は佛の廣大無邊な慈悲を太陽の光りに例へ、人間を超えて「一木一草」に至るまでの佛の慈悲大悲に浴するものとみなした。
朱子學では「事物には皆その在り方を規定する理があり、その事物の理を窮め知ること」を窮理と言ふ。そして「理を窮めるには『一木一草』の理に至るまでいちいち全部知り盡くす必要があるが、さういふ努力を積み重ねれば、或る段階で『豁然(かつぜん)貫通』して、すべての理を一擧に了解し得る」ものとした。
この小欄が、文字文化の「一木一草」たらんことを祈る。

書 評

自由で多彩な解説文で充分樂しめる百人一首 ― 和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する:
『今昔秀歌百撰』文字文化協會 2012

織田多宇人

 

二千有餘年の詩的藝術は、古事記、萬葉集から始り、古今集、新古今集の藝術的洗煉による頂點を經て、明治文明開化に至る脈々たる生命を持ち續けた。日露戰爭後の日本人を蔽つた深い疲勞感は文章意識にも及び、文語文から口語文ヘの移り變りが、一般生活人のみならず、文士の文體意識の變化にも及んだ。この變化は、國語表記の改革と言ふ文部省官僚の提案と雰圍氣に無關係ではない。明治四十一年に五囘に亙つて開かれた臨時假名遣調査委員會で孤軍奮鬪した森鷗外によつて官制のかなづかひ案は撤囘された。昭和二十年八月十五日の敗戰に伴ひ、占領下の吉田内閣の時に内閣告示によつて國語表記の改革が行はれた。アメリカからやつて來た教育使節團は、粗雜な言語觀で、「漢字の廢止、そしてローマ字の採用」を強行しようとした。周知のやうにこの暴擧は實現しなかつたが、「漢字の減少、漢字の簡略化、新かなづかひ」といふ國語表記の改惡は實現し、以來今日に至り定着しかけてゐる。因みに「当用漢字」と言ふのは、ローマ字になるまでのさしあたつて使つてよい漢字と言ふ意味であるらしい。

 

本書はこのやうな歴史にも拘らず、二千年の歴史をもつ和歌が、明治文明開化期と昭和の敗戰占領下と言ふ二つの外壓に堪へて今日に生きてゐることに、わが國語のしなやかで、勁い生命への思ひを噛みしめ、古事記、萬葉集から近代と戰後現代に至る和歌の姿と心に一人一首を對象とする百篇の鑑賞と批評の解説をした文章が寄せられたものを集大成したものである。從つて、當然のことながら、歌は固より、解説文も全て正漢字(舊漢字)、正假名遣ひ(歴史的假名遣ひ)で表記されてゐる。解説者は殆どが歌人や和歌の研究者ではなく、政治家、大學教授、教師等を含む一般人であり、和歌の世界の外側から和歌を鑑賞する解説文は自由で多彩で充分樂しめる。

 

「上代」からは豐玉毘賣命、神武天皇、倭建命から大伴家持に至るまで、天皇、歌人、皇族、作者不詳の十七首が收められてゐる。教科書にもよく出てくる倭建命(やまとたけるのみこと)の「倭(やまと)は國のまほろば疊(たた)なづく青垣(あをかき)山隱(やまごも)れる倭(やまと)し麗(うるは)し」の解説文を例にとると、「倭は國のもつとも秀でたところだ。青々とした山が垣根のやうに重なつてゐる。そのやうな山々に圍まれた倭はすばらしい」と先づ意味を述べた後、古事記の記事を紹介し、倭建命がこの歌を歌つた場所を説明し、傷つき死が近づく中で景行天皇によつて故郷大和から退けられた無念と強い望郷の念が感じられると感想を述べてゐる。更には辭世の歌も紹介し、その歌に出てくる草薙の太刀から相模國の燒津で一所に脱出した弟橘比賣命の話にも移り、これを紹介してゐる。讀んでみて誠に興味深い解説文になつてゐる。

 

「中古」からは在原業平、小野小町、菅原道眞、清少納言、紫式部、源頼政等、公家、女流作家、歌人、武將等の歌二十首が收められてゐる。「中世」からは藤原俊成、西行、藤原定家、明惠上人、宮内卿、源實朝、後鳥羽上皇、後醍醐天皇、吉田兼好、武田信玄等、公家、僧侶、歌人、天皇、上皇、武將、戰國大名等の歌十六首が收められてゐる。「近世」になると、契冲、本居宣長、吉田松陰等、學者、思想家等の歌十一首が收められてゐる。

 

「近現代」になると各分野から多くの人物が登場する。明治天皇、森鷗外、正岡子規、與謝野晶子、大正天皇、齋藤茂吉、石川啄木、昭和天皇、福田恆存、三島由紀夫等々。天皇、作家、歌人、評論家その他の人々の歌三十六首が收められてゐる。百撰とは言へ、實は最期に一首追加されて合計百一首、百一人の人が解説を書いてゐる。現行「國家國旗法」の「いわおとなりて」は文語和歌である以上、「いはほとなりて」と歴史的假名遣ひに改正すべしとする動きがあり、古今集にある「君が代」の本歌「我君は千代にやちよにさゝれいしのいはほとなりて苔のむすまで」が國歌への理解を願つて百一首目に追加されてゐるのである。なほ、國語問題に關心のある稻田朋美、山谷えりこ兩女性國會議員も百一人の解説者の中に入つてゐる。

 

三島由紀夫の歌は、「散るをいとふ世にも人にもさきがけて散るこそ花と吹く小夜嵐」。この歌は自決の二日前の最期の歌である。三島由紀夫の歌は二十首しか確認されてをらず、辭世の歌まで三十年の空白があり、必ずしも熱心な歌詠みではなかつたが、彼にとつて「歌」が重要でなかつたとは言へない。十七歳の時に作つた盛夏のせみしぐれの中で何か偉大なものを感得する纖細な心象風景を詠んだ習作「神のおそれひたにおもひつ葉ごもりにせみしぐれせる日ざかりをいく」は辭世の歌に對して、技巧や訴及力、完成度は比べるべくもないが、歌を律する精神は一貫してゐる。

 

詠はれた情景を想像して、良いな、趣があるなと印象に殘つた歌を一首紹介して評を終へる。宮内卿の「花誘ふ比良の山風吹きにけり漕ぎ行く舟の跡みゆるまで」。風が強くて散り敷かれた花を舟が掻き分けて進んで行くにつれて、航跡の部分だけ水面が露はれる。解説者もいみじくも書いてゐるやうに、櫻を詠つた歌は數へきれない程あるが、その匂ひ立つ美しさをこれ程までに見事に描き出した歌はないと思ふ。

言葉と文字はどこから来たのか:
『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット著、屋代通子訳、みすず書房 2012

黒田信二郎

 

本書は、宣教師であり言語学者でもある著者が、二十年以上にわたってブラジルの先住民ピダハンの人々と暮らし、アマゾン文化にどっぷり浸かるなかで、「ピダハン語」の特徴とその文化を理解した過程を、彼の家族との暮らしぶりも交えて明らかにしたものである。チョムスキー「生成文法」などの理論言語学に対して、フィールドから言語と文化をとらえるべきとの主張が「学会に爆弾を投げ込んだ」と話題になった本である。
ピダハン語は、ブラジル・アマゾンの少数民族ピダハンの言語で、「文字」つまり、「言語記録の基本装置」を持たない。四、五百人だけが使用していて、消滅の危機に瀕している言葉であるが、ピダハンが近隣の部族とも離れ、長期にわたって外部からの文化的影響を受けずにきたことにより、今日まで奇跡的にその原形をとどめている。

 

著者が最初に興味を引かれたのが、ピダハン語に言語学で言う「交感的言語使用」が見られなかったことだという。「交感的言語使用」とは、社会や人間同士の関係を維持したり、相手を認めたり、和ませるために使う「こんにちは」「さようなら」「ありがとう」「どういたしまして」「すみません」などの表現で、善意や敬意を表すものをいう。ピダハンの表現形式は、「情報を求める(質問)」、「新しい情報を明らかにする(宣言)」、あるいは「行動を指示する(命令)」のいずれかで、善意や敬意は「行為」で示されるらしい。
また物を数えたり、計算もしない。「大きな魚一匹」と同じ量位の「小さな魚二匹」も同じ表現で表す。色も抽象的な名称をもたない。「それは血」が赤で、「いまのところ未熟」が緑だ。数や色は、性質が共通するものをひとまとめに分類して一般化するものだが、これがないのだ。方向についても「左手」「右手」がない。方向の指示は川(川に向かって上流か下流か)、ジャングル(ジャングルの中へか外へか)を基準に表現する。
そして、経験の直接性のみが言語化され、従って口承伝承や神話がない。つまり何らかの価値を一定の記号に置き換えることを嫌い、その代わりに価値や情報を、実際に経験した人物、あるいはその人物から直接聞いた人物が、行動や言葉を通して「生の形」で伝えようとする思考形式がみられるという。したがって、実際に見ていない出来事に関する言葉と行為、すなわち儀式が見受けられない。彼らは「精霊」をみることができるが、それを「神」にはしない。
著者はまたピダハンの人々が「良く笑い、とても幸せそうである」ことに感銘を受けている。

 

言葉や文字は多様で、歴史的時間軸や地域的座標軸、それにそれを支える文化的背景の上に成り立つとされる。そして我々はそれを、人類の進化・進歩という概念でとらえる。しかし、ピダハンの世界は、このようなあらゆる西欧的な既成概念を揺るがすものだ。そもそも、感じたことや考えたことを言葉として抽象化し、さらに文字を使って記録・伝達するということはどのように成り立つのか。 我々はごく短い時間軸のなかで「文明の利器」として電話やラジオ、テレビを手に入れ、さらにコンピュータ技術も加わり、日常的に膨大な言葉と文字のシャワーを浴びる「情報化社会」にあるが、日本語という言葉がどう生まれ、およそ2000年前に中国から伝来した「漢字」という文字をどう取り入れてきたのか、その長い営みについて、改めて考えさせられるのである。

汲めど尽きない「方言漢字」の世界:
笹原宏之著『方言漢字』(角川選書520)角川学芸出版 2013

黒田信二郎

 

「“漢字は全国共通”と思ったら大間違い!」とオビにある。
本書は、著者が日本全国各地域を実地に調査してみつけた個性豊かな漢字について、「中国生まれの漢字が日本の風土とどのようにつながってきたか」、「漢字学」「日本語学」両方の視点で解説するものである。各地で著者自らが撮りためた看板やバス停などの写真も交えて紹介しているのが、いかにも「実地調査」であり楽しい。

 

言葉に「方言」があるように、漢字にも「地域漢字」や「地域音訓」が存在するという実証的な成果であり、その渉猟の熱意に脱帽する。著者は「私は文字そのものへの関心が強いことは間違いないが、それを突き詰めていけば、実は文字を使う『人』への関心なのだ」と述べているが、それぞれの土地に住む「人」が独自の自然、習俗や言葉に合わせて工夫を加え育んだ「方言漢字」は、地域の文化や歴史を知る手がかりとなることがよくわかる。

 

第三章「関東の漢字から」には、こうある。
「『大岾』に行きたかった。『おおはけ』と読む。八潮市の『垳(がけ)』と同様に崖という意味をもつ方言が、埼玉では地域文字によって表記されているのだ。」
日本の地図研究の第一人者である芳賀ひらくも、その著書『デジタル鳥瞰 江戸の崖 東京の崖』講談社(2012)で、こう書いている。
「一方『漢字』においても、区画整理で地名変更が話題となった埼玉県八潮市の大字名『垳』のような崩壊地形を表わす『国字』が『発達』していて、ほかに『圸(まま)』『𡋗(くれ)』『垪(は)』『墹(まま)』『儘(まま)』などの例が挙げられる。」
「崖および崩壊地形」とは、いずれ来るだろうと言われる大地震を考えると随分深刻だが、「地名の文字」は「その地形の歴史を表わす」ものでもあるのだ。

 

東日本大震災の翌年、岩手県の山間地にある「北上山地民俗資料館」に立ち寄ったことがあった。地域の文化財や民具の展示は優れたものであり、その館の学芸員の仕事ぶりにおおいに感心したのだが、そこでは臨時展示として「3.11大震災の記録」の展示も行われていた。地域の歴史文化の貴重な記録などが、3.11の災害でずいぶん「消失」してしまったのではないかと思いをめぐらせる一方、実は「平成の大合併」のような行政効率推進の嵐にもまれ、いつのまにか「廃棄」の憂き目にあっている記録や史料などもあるのではないかと考えた。
「地名文字」については、行政上の要請から多くの文字がJIS規格に採用されているとはいえ、そこに刻まれた「人」であり「土地」であれ「何かを表わしていた」文字が消えていってしまうことに対して「調査して記録して保存する」営みはとても大切なことなのだ。

 

笹原は最終章「方言漢字のこれから」で本書を次のように締めくくっている。
「日本語の文字と表記は、要素や体系として、世界でも稀なほどの多様性をもつ。それに自由度の高い運用法が掛けあわされてきた。そして社会的、地域的な集団による違いまでがそこに立体的に掛け合わさっているのである。日本列島は、欧米や中国など広大な大陸から見れば小さな国土にすぎない。しかし日本の文字・表記の多様性は地域差にも見つけられた。豊富な選択肢を用いて読み書きするという大らかでありながらも細やかさも合わせもった文字生活は、各地の人々の表現にも活力をも生み出してきたのである。」

 

「文字鏡研究会」は「どこかで使われていた典拠のある文字」の十八万字におよぶ文字字形(図形)の集積を果たしていて、「インデックスフォント研究会」では印刷出版の現場でそれら「運用上区別する必要のある文字」のデジタル的な表示について研究してきたが、「方言漢字」にはまだまだ「汲めど尽きぬ」世界があるのではないかと思う。